この祝日をはさんだ週末を高知で過ごした母が、日曜日に腰を痛めて帰ってきた。「おばあちゃんにね、抗うつ剤が処方されて、カラダに全然力が入らなくなって、車の乗り降りで支えようとしたら、ぐきってきた」とのことで。高齢女性にありがちな骨粗鬆症で、すでに腰に、如何ともしがたい圧迫骨折を抱える母。どうやら骨の「発作」として現れたらしい。私は祖母に抗うつ剤として何が処方されたのかが気になって仕方がない。抗うつの第一選択はSSRIだけど、SSRIでそんな脱力(無気力・鎮静)があったっけな。それともまさか、三環系??
そもそも、祖母に抗うつ剤が適用された理由は、自殺企図。電源コードを首に巻きつけて死のうとしたらしい。ただ、家でもそれと近いことはしょっちゅうだったし、おそらく、今回もそれと同じだと思う。今、祖母は介護施設に入ってしまっているので、見つけた誰かは慌てたんじゃないだろうか。でも、祖母のそういう行動は、私からは、注目を集めたいがためのパフォーマンスにしかみえていない。祖母はいつも、「誰からも注目されていない」と思っている。自分の役割や自分の存在意義に迷いを抱えている。祖母の言動のほとんどはその系統から流れて来ていたし、だから、その「パフォーマンス」自体はいつものことで、何の驚きもない。むしろ、祖母の場合、何か行動に突発的に表わそうとする様子は鬱でなく躁だとすら。
どこか陰鬱でメソメソしていて、責任を取ることをせず(できず)、いつもカラダのどこかに不具合があり、カレーとかハンバーグとか牛乳とかチーズみたいな新しい食べ物を絶対に口にせず、家族と同じ食卓には頑なに座ることはなく、外出をせず、家事をするでもなく、夏でも常にコタツに入り、どこで買ってきたのかわからないけど、お菓子だけはいつもふんだんに食べている。それが私のおばあちゃん。私が子どもの頃からずっとそうなので、「おばあちゃん」とはそういうものだとずっと思ってきた。だから、ヨソの家に行ったり、母の実家に行くと、ハツラツと働く「おばあちゃん」の姿が眩しく、洋風の新しい食事を家族と喜んで食べる姿も勇ましく、「こんなおばあちゃんもいるんやな」と羨ましく思ったもんだった。
外側だけを眺めると、幼少から今に至るどの断片を切り取っても世間的には「シアワセなおばあちゃん」。でも、当の本人はいつも不幸せがっている。祖母のカラダの不調のほとんどはその象徴なのだとも思う。兄弟の多い貧しい家庭から、親戚の家に跡取りとして引き取られたこと。いきなり裕福な暮らしになって、周囲の子が誰一人持たないランドセルを背負えたこと(よくこの話をするので、きっと、とてもイヤだったのだろう)。それに、一番大きいのは、祖母の人生を通じて、経済的に、祖母が握れるものは何もなかったこと。自由に使えるお金がない、というのは、自己決定権がない、ということにもつながる。好きな洋服や雑貨を買う、なんてレベルの話ではなく、たとえば、ただ醤油をひとつ買うのにも、誰かからお金をもらわなければならない。祖母がいつも持っていたお菓子は、誰かから与えられたものなのだ。働くのにお金がない、ではなく、理由はわからないけど、働けない(いや、参加をしない)から自分の裁量で使えるお金を持てないのだ。そこへきて、家でも外でもハツラツと楽しそうに働き、家計を支える嫁の存在。ちょうど時代の変わり目で、粛々と家にいた自分への疑問が湧くのを止めようがなかったのではないか。
数年前に母の論文を手伝って、過疎地における移動手段についてのアンケートを集計したことがある。それは、過疎地有償運送の効果の測定でもあった。有償運送によって生活満足度は向上したはず、との予想は大きく外れて、安い価格で、乗り合わせで運んでもらうことへの申し訳なさがより際立っていたことが衝撃的だった。「申し訳なさ」は、残念ながら、そっくりそのまま「ありがたさ」につながるわけではない。むしろ自分の不甲斐なさ、役に立っていない感じを助長することがある。そういうふうに感じられるアンケートの回答主のほとんどが、運転免許を取得したことのない高齢女性に多い印象を受けた。どうして運転免許を取らなかったのか。こんなにもクルマが普及すると思っていなかったかもしれないし、免許取得は今よりももっとお金のかかることだったのかもしれない。こんなにも過疎が進んで、街から店や学校や「ご近所さん」が消えてしまうなんて思ってなかったのかもしれない。とにかく、今現在、そもそも体力的に、自力で遠くへ行くのは難しい。たとえば豆腐一丁を買うことすらも、人の足に頼るしかない。「あ、忘れてた」なんて思いつくままに移動できること。これも自己決定権のひとつだ。
自分の裁量で動かすことのできない人生。私には全く想像ができないけど、祖母の精神のほとんどはこれで規定されているように思える。申し訳ないけど、とても興味深い。いつか祖母の話をまとめたいなあと思うけど、しかしながら話を聞くのも、ひとつ、強い気合いの必要な相手なだけに。その周辺の、祖母の娘たちの話も聞きたいなあと思うけど、こちらも、これまたひとつ、強い気合いが必要なだけに。
母の腰が悪すぎて、動いてもらうのが申し訳なく、私は訥々と普段より増えた家事仕事をこなしている。それでもなお、「ねー、ちょっとは同情してよ」とニヤニヤする母を見て健康な人やなーとホッとして、「やること増えて、むしろこっちが同情してほしいわ」となんとなくニヤニヤしながら、軽く本音を伝えてみたりして。私たちは、何のおもしろみもない健康な家族です。